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『クロームドシティ』の世界1-3

 日付の替わる境界が、デュエルの開始時刻だった。残り四百万マイクロ秒。今までに五十人以上の相手を葬ってきたが、このカウントダウンの間はさすがに緊張する。喉が渇き、アドレナリンの味が舌の奥に広がる。観衆の声が聞こえなくなり、右手のLED以外なにも見えなくなる。──しかし、それら全ては勝利の前のかすかな瞬きに過ぎない。
 すさまじい勢いで減ってゆくカウンターが、あっというまに百万を切った。残り八十万マイクロ秒。短く息を吸って、止めた。脳の駆動音がうなりをあげた。
 カウンターがゼロになった刹那、セットされていたあらゆるコードが奔流となってケーブルを走り抜けた。最初にアイスブレーカー、次にダミーキラー、最後にキャンサー。一斉に、LEDが青くなった。八つのうち、七つまでが青く染め上げられた。わずか三百マイクロ秒。
 一つでもキャンサーコードが脳に入り込めば、その時点でデュエルは終わりだ。キャンサーは電脳の中枢を司るDNAプロセッサを癌化させ、爆発的に増殖させて腫瘍の塊にしてしまう。コンマ五秒ほどのできごとだ。苦痛を感じる間もなく、敗者はこの世を去ることになる。圧縮された時間感覚の中で、俺は目の前の男に無言の弔辞を手向けた。
 しかし、デュエルは終わらなかった。俺の発信したコードはマサキのコネクタを通過したとたん、一つ残らず叩き潰された。ゲートの向こう側に待ち構えていた無限回路にアイスブレーカーが取り込まれたかと見えるや、冷酷なICEがキャンサーもなにもかもを凍てつかせて粉砕したのだ。
 だが、俺はあわてなかった。攻勢防御はこのデュエルにおける代表的な作戦の一つでしかない。ここで無限回路を除去しようと仕向けるのが敵の狙いだ。無限回路がある限りこちらの攻撃も通らないが、向こうの攻撃も通らない。こちらがそれを除去しようとする隙を突いて自ら無限回路を放棄しケーブルを奪い取るのが、この作戦の主眼。チープなやりかただ。
 制圧した七つのチャンネルのうち六つにアイスブレーカーを流し続け、狙いを一つに絞った。無限回路除去ツールを走らせて、ロックした。と同時に、そのチャンネルを奪い取られた。回路を捨てたようだ。同時に貧弱なアイスブレーカーが流れ込んできたが、自家製のICEには傷ひとつ付かなかった。間髪おかず、解析コードが飛んできた。無駄だ。どれだけ優秀なハッカーだろうと、このICEを溶かすには四秒以上かかる。その間に相手は十回死んでまだ時間があまる。
 ここまでで一秒が経過した。戦況は六対二。圧倒的優勢だった。次の手も決まっている。今までにもこういう相手は何人もいた。慣れたものだ。十中八九、俺の勝ちだった。
 六極の無限回路に対して、膨大な量のデータを流し込んだ。データの隙間にはブレーカーをねじ込んだ。一秒ともたずに回路が吹き飛んだ。たちまち砕氷機が氷の壁を突き崩し、脆弱な電脳をあらわにした。これで終わりだ。一抹の慈悲もかけなかった。ダミーなどおかまいなしに、キャンサーを放り込んだ。
 逆転コードが待ち構えていた。致命の一撃となるはずのキャンサーは、いともたやすくコードを反転されて消え失せた。手馴れた感じさえ受ける防壁だった。無論、こっちも慣れている。あらかじめ逆転させたキャンサーコードを送ってやった。が、すでに逆転コードは消えていた。なかなか小細工をする相手だ。どうやら時間稼ぎが目的らしい。俺は正コードと逆コードのキャンサーをチャンネルごとに無作為変換して送り込んだ。今度こそ、間違いなく終わりだ。
 直後、八極回線が一つ残らずダウンした。LEDの光も消えていた。何事かと思ったが、すぐに理解した。マサキの電脳がシャットダウンされたのだ。ふざけた真似をしてくれる。どうやら、脳の中枢部は生体パーツらしい。
 だが、いずれにせよ電脳を破壊すれば俺の勝ちだ。再起動した瞬間、ICEも無限回路も役に立たないうちに脳を破壊してやる。セントラルフロストの公式ルールでは電脳をシャットダウンすることは一回に限り認められているが、三秒以内に再起動しなければ戦意喪失とみなされて敗北となる。即ち、ゲームオーバーだ。──さぁ、早く起動しろ。
 右手のLEDを見つめながら、三百万マイクロ秒をカウントダウンした。半分を数えたところで、ゲートの内側にマサキの放った解析コードが残っていたことに気付いた。排除すべきかと迷った。即座に、必要ないと判断した。こっちのICEを溶かされるより先に、ヤツの脳を破壊すれば済む話だ。負けるはずがなかった。
 戦意喪失と判断されるより一マイクロ秒だけ早く、マサキの脳が再起動した。同時に、八チャンネル全てにキャンサーを──その瞬間、右手の小指が疼痛を発した。キャンサーを放つコマンドは予期しない痛覚のノイズに乱されて、無効と判断された。
 脊髄に液体酸素を注入されたような気がした。あらゆるものを凍結させる、青い液体。
 全ては一瞬のうちに起こった。たった一つだけ赤く光ったLEDのチャンネルから、完璧に組み上げられたアイスブレーカーが入り込んできた。不沈を誇った俺のICEは、跡形もなく瓦解した。それでも、俺はあわてなかった。占拠したチャンネルにキャンサーを流し込んでやった。遅いのはわかっていた。マサキを見た。笑っている。三日前に地下街でぶつかった男だったことに気が付いた。その二千マイクロ秒後に、俺の脳はキャンサーに冒されていた。──脳幹中枢凍結。セントラルフロスト。右手のLEDが血のような赤に輝いて、あとはなにも見えなくなった。体が前に倒れてゆく感覚があったが、体を打ち付ける感覚は届いてこなかった。畜生。言おうとしたが、言葉にならなかった。ゲームオーバーだった。
| Text | 22:55 | comments(1) | trackbacks(1) |
『クロームドシティ』の世界1-2

 定刻の五分前に着くと、すでに公園には役者がそろっていた。このデュエルのプロモーター、クライアント、ジャッジ、それに対戦相手、周囲を取り巻くギャラリー。公園の中央部には一メートルほど底上げされたステージが設営されている。ステージの四隅にはポールが立てられて、さながらボクシングかプロレスのリングだ。ロープを張れば完璧だろう。実際、そういうリングで行われるデュエルもある。だが、今夜のそれは違う。殴ったり撃ったりするような、野蛮な戦いではない。もっとスマートでエレガントな、紳士の戦いだ。血の一滴も流れない、クリーンな戦い。──通称、セントラルフロスト。
 ステージに近付くと、俺の姿を認めたギャラリーから喚声が沸き上がった。この街で俺を知らない者は滅多にいない。セントラルフロストにおいて無敗の五十勝をあげた人間は、俺以外に存在しないのだ。少なくとも、この街では。
 クライアントが出てきて、「遅かったな」と言った。いつものことだ。適当にあしらって、ステージの下に立った。対戦相手はすでにステージの上だった。顎鬚を生やした、三十後半ぐらいの男だ。疲れたようにポールに背を預けて、うつむいている。新品みたいにまっさらな白のシャツに、ダークブルーのスーツ。おまけにネクタイまでつけている。珍しいタイプだった。
 少し用心することにした。メモリから相手のデータを読み出すのと同時に、ネットからも検索した。得られた情報は少なかった。名前はマサキ。想定レベル70前後。小規模なハッキンググループのリーダー。公的ペナルティ値ゼロ。
 どこにでも転がっているような男だった。おおかた、今までの対戦相手と同じように一攫千金が狙いだろう。だが、そう簡単にはいかない。このデュエルで五十回勝ち続けるということがどういうことか、認識が甘いのだ。身をもって知る必要がある。残念ながら、知ったときには死んでいるわけだが。
 ステージの上から、ジャッジが手招きした。ゴングの時間だ。一メートルの高さにあるステージへ、一蹴りで跳び上がった。同じように呼ばれて、マサキが顔を上げた。億劫そうに腰を上げると、あくびをしながらジャッジの横に立った。緊張している様子はなかった。そこにつけこむのは諦めたほうが良さそうだ。
 正面に向かい合った俺たちの間で、ジャッジが一本のケーブルを出した。長さ五メートルほどの、やたらと太いネイビーカラーのプローブケーブル。両端にコネクタがある。ジャッジがその片方を俺に握らせ、もう一方をマサキに握らせた。コネクタの下にはノイズフィルターのような装置が付けられて、ケーブルの通電状態を示すLEDがずらりと同軸上に並んでいる。八極ケーブルのそれぞれを監視するLEDが二つずつ、計十六。今は全てのLEDが消灯して、なにも通電していないことを示している。
 コネクタを耳の後ろのジャックに差し込んだ。ケーブルを右手に握ると、LED表示がちょうど目の前に来る。このLEDがすべて青になれば俺の勝利だ。赤なら敗北。一度も見たことはないが。
 マサキがコネクタを差した。ジャッジが芝居がかったポーズで腰を落とし、腕時計を見つめた。俺は百万分の一秒単位でカウントダウンを開始した。このデュエルでは、開始直後のコンマ一秒が勝負だ。その間に過半数のチャンネルを確保することができれば、勝利はほぼ確実。実際、セントラルフロストの勝負はほとんどが三秒以内に終わる。一流のアスリート並みの号砲反応が要求されるのだ。もっとも、俺たちはそれをコンピュータに頼ることができるわけだが。
| Text | 18:48 | comments(1) | trackbacks(0) |
『クロームドシティ』の世界1-1

 右手の痛みで目が覚めた。小指の先に疼くような痛みが跳ねている。三日ほど前から、こうだった。地下街を歩いていたとき誰かのスーツケースの角にぶつけてしまって以来、神経整合がうまく働いていないらしい。耐えがたいほどの痛みではないが、睡眠を妨げられるのはごめんだった。明日にでもファクトリーに行くべきだろう。
 ベッドを出て、アンプルを二本飲んだ。一つは生体ナノマシンを維持するための処方薬、もう一つは一日に必要なカロリーとあらゆる栄養素の詰まったケミカルブレイクファースト。この二つがあれば、一日生きていられる。
 地下室のベッドルームには日が差さない。それでも、夜だということはわかる。この街では、昼と夜とで空気が違う。街の喧騒の届かない地下にさえも、冷たい夜気は忍び入ってくる。微かに漂う火薬の匂いと、クロームの輝き。
 目覚ましに、熱いシャワーを浴びた。零時に中央公園で予定が入っている。一秒でも遅れればペナルティだ。クライアントはたいてい時間にうるさい。すっかり目が覚めたところで、街へ出る準備をした。
 黒のシャツに黒のチノパン。スニーカーも黒。ついでに髪も黒だ。夜は黒以外身に着けない。この街の深夜を白い服で歩くなど、狙撃してくださいと言っているようなものだ。
 サングラス型のミラーシェードをかけて、脳につないだ。自動的に輝度が調整されて、見慣れたスクリーンが視界を覆った。シャツの上に防弾コートを引っ掛けて、ベッドサイドからシグを二丁。弾倉を確かめてコートの内側に吊るした。銃もコートも必要ない予定だが、念には念だ。
 地下三十メートルの自室から、エレベーターで地上に出た。外気に触れた瞬間、身が引き締まった。ひどく寒い。十一月とは思えない空気が街の底に淀んでいた。空高く張り巡らされたドーム型の天蓋には、雲ひとつない暗黒を支配するかのように巨大な月が真円を描いていた。決闘にはふさわしい夜だった。
| Text | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
一週間で二万字書いてやろう6

 アパートに帰ると、シオリの姿はどこにもなくなっていた。バスタブには彼女の体温を残したようにぬるくなった水だけがあって、昨日の夜や今朝のことが幻のようだった。本当のところ、シオリは幻だったのかもしれない。しかし、それなら今朝の会話はなかったことにしてほしかった。昨夜だけのことなら、酔っ払いの妄想として片付けることができたのだ。
 バスタブの底に、銀色の球が落ちていた。拾い上げてみると、大粒の真珠だった。かなり大きい。標準的な真珠のサイズは知らないが、十円玉の直径ほどもある真珠は小さくはないだろう。どうやら人魚の涙が真珠になるというのは本当だったらしい。もっともシオリのことだから、どこかでくすねてきた模造パールを置いていっただけのことかもしれないが。ともかく人魚の世界にも一宿一飯の恩義に報いるぐらいの常識はあったようだ。売ればいくらになるだろう。そう思ったが、結局売れないだろうとも思った。
 喪失感とも安堵感ともつかない感覚を覚えながら、僕はバスタブの栓を抜いた。ゴボゴボと音をたてて、渦を巻きながら水が流れて落ちていった。その音を聞きながら、バスルームを出て居間に移った。
 机を見ると、そこに置いてあったはずの本が消えていた。三百円で購入した『人魚』はシオリ同様どこかへ消え去って、何の痕跡もとどめていなかった。やっぱりな、と思った。大学で雨上がりの空を見たときから、こうなる予感があった。おそらく、雨がシオリを人魚に変えるのだろう。彼女本人がそれを知っていたのかどうかは、わからなかった。いずれにせよ、いろいろ調べるだけ無駄だったというわけだ。もう少し早く気付いてしかるべきだった。どうも、僕は肝心なところで抜けている。
 真珠を机に転がした。滑るように転がって、湯飲み茶碗にぶつかった。思いがけず、いい音が響いた。僕は焼酎を飲むことにした。平日は飲まないようにしているのだが、今日みたいな日は飲んでもいいだろう。まだ早い時間だったが、どうにも飲まずにいられない気分だった。湯飲み茶碗を洗い、冷蔵庫から水羊羹を出してきて、昨日と同じようにやり始めた。どういうわけか、昨日のことのはずが一ヶ月も前のことのように思えた。
 ほどよく酔いがまわったところで、ギターを持ってきた。まだ痛みの残る指で、昨夜教わった曲を弾いてみた。人間の手にもどうにか可能なほどの曲だったが、あいにく僕の腕では無理だった。それでも、酒を飲むたびに練習していればいつかは弾けるようになるだろう。いつになるかは見当もつかないが。
 その夜、僕は記憶がなくなるまで酒を飲み、指に血がにじむまでギターを弾いた。そして、アルコール漬になった思考の中で一つの決心をした。昨日からのことを本当に小説にしてやろうと。うまくすれば、良い話が書けそうだ。タイトルは──。『雨の日の人魚』にしよう。これは名案だ。つらつらとそんなことを考えるうち、いつのまにか意識が消えていった。

 その後、雨が降る日には何となく例の古書店を訪ねるようになった。ふだんは必ずシャッターを閉じている店だったが、雨天の日には例外なくシャッターを上げていた。曜日や時間帯は関係なかった。雨さえ降っていれば、午前零時でも開いていた。長く続いた梅雨のうち何度となく訪れたが、結局その店で『人魚』が見つかることはなかった。店主にも色々と訊いてみたものの、無愛想なその男からは決してまともな返事が返ってこなかった。
 もっとも、『人魚』を見つけてそれをどうしたいのかというと、僕自身よくわからなかった。もう一度シオリに会いたいという気持ちは、それほど大きくなかった。そういう気持ちになるような関係まで踏み込まなかったし、万一彼女が人間になったとしても僕の理想からは遠すぎた。だから、必死になって『人魚』を探すようなことはなかった。ただ、雨の日に和菓子屋へ行く途中で古書店を軽く覗いてみるだけだった。
 そうこうするうち、冗談のように書いていた『雨の日の人魚』は最後まで書き上がってしまった。ボールペンで書かれた汚い手書きの原稿用紙は、四十枚ほどになった。松田に読んでもらうとあまり良い評価はもらえなかったが、級友の女友達には例外なく好評だった。皆、口をそろえてシオリの性格が良いと言った。まったく理解できなかった。架空の世界の話だからそんなことが言えるのだろう。実際に会話を交わしたら、むしろ女性たちのほうが先にケンカになるだろうにと思った。
 小説のほうは一ヶ月で書き終えたが、ギターのほうはというとあまり進歩がなかった。それでも、以前よりはまじめにギターに接するようになった。おかげで週末の酒量は減った──のならよかったが、なぜか逆に増えた。ギターと酒は相性がいいのだということを改めて確信した。
 ギターは上達しないままアルコールにだけはどんどん強くなり、やがて長かった梅雨もあけて夏になり、夏休みが終わって秋が訪れた。この年の秋は短かった。例年より十日も早く東京に冬日がやってきて、年が明けるとすぐに大雪が降った。殊に一月三日は早朝から記録的な豪雪に襲われて、年明け早々テレビや新聞は大騒ぎだった。
 その日、僕はというとクリスマスの数日前に級友からの紹介を受けて付き合い始めたばかりの女の子と、仲良くギターなどを弾いていた。真知子という名だが、周囲の誰もがチコと呼んでいた。おとなしい娘で、ギターが弾ける以外はシオリと共通する部分など一つもなかった。髪は黒いし、なにより会話が上品だ。理想のカノジョだが、どこか物足りないような気がするのはシオリの残した悪影響だと思うことにした。
 チコは『雨の日の人魚』を読んで、「悲しいお話だね」と言った。実話だとは伝えなかった。机の引き出しにしまった真珠を見せたらどういう顔をするだろうと想像をめぐらすのが、楽しみの一つになった。いつかチコと結婚する日が来たとして、シオリの残した真珠で指輪を作ってやるのは悪い考えではないだろう。その前に一度、本物かどうかを確かめる必要はありそうだったが。
 新年三日めの大雪の午後、チコの希望で僕たちは街へ出かけることになった。初詣に行きたいというのだ。全国的にも有名な神社の境内が、街の中央に広がっている。ふだんは老人ばかりで活気のかけらもないこの街だが、年始の季節だけは異様なほどの活況を呈する。初詣のためだけに存在するような街なのだ。にも関わらず、今年は元日から降り始めた雪のためか、参拝者も少なく街全体が沈んだムードに包まれているようだった。
 例年は人であふれる神社への大通りも、今年の一月三日は一面の雪に覆われて、人影もまばらだった。僕はチコと手をつないで、除雪された歩道を歩いた。チコがそうしたいと言うので、カサは一本しか持ってこなかった。ときどき自己主張する彼女を見るたびに、シオリを思い出した。半年が過ぎて、もう会ってみたいとは思わなかった。薄情なものだ。
 ふと足が止まった。古本屋の前だった。いつも閉じられているシャッターが開いていた。雨の少ない真冬の季節には、久しぶりのことだった。参拝者目当てというわけではないだろう。雪が降っているから開けたのに違いない。ここは、そういう店だった。僕はチコを連れて店に入った。彼女は何も言わず、黙ってついてきた。
 我知らず、目を疑った。半年前に『人魚』を見つけたのとまったく同じ場所に、同じ装丁の本が置かれていたのだ。薄い青色の布張りの装丁に、銀糸で刻まれた二文字の題名。手に取って開いてみると、どのページも真っ白だった。まるで外の風景のように。真ん中あたりのページに、栞が挟まれていた。どこも折れてはいなかった。シオリではないのだということが、それでわかった。開く前からわかっていたことだったが。
 本を閉じて、もとあった場所にもどした。今の僕には必要なさそうだった。それに、題名が違う。書架にもどしたその本の背表紙には、銀糸の刺繍でこう書かれていた。──雪女。
 僕はチコの手を引いて店を出た。無愛想な店主の含み笑いが聞こえたような気がしたが、すぐに聞こえなくなった。雪は当分やみそうになかった。



   ──以上、完結。17306文字。



| Text | 15:41 | comments(10) | trackbacks(0) |
一週間で二万字書いてやろう5
 昼過ぎに目が覚めると、雨はまだ降り続けていた。やや落ち着いてきた雨音を聞きながら、ベッドで仰向けになったまま昨夜のことを思い出してみた。古書店で買った奇妙な本の中から紙切れが出てきて、それが人魚になって──。ギターを持ち出したあたりから記憶があいまいだった。だいぶ飲んだようで、明らかに二日酔いだった。ふと不安になった。まさか、あれは全て夢の中のできごとだったのでは。そう思った。
 あわててバスルームを覗いてみると、そこには誰もいなかった。──ということになれば、何も考えずに一日を過ごせるはずだった。しかし、あいにくなことにというべきか幸いなことにというべきか、僕の頭はそこまでおかしくなってはいなかった。
 昨夜の酒盛りの結果を映し出すかのように、バスタブには亜麻色の髪の人魚が腕を枕にイビキをたてているのだった。洗い場の床には焼酎の瓶が一本と、ラムのボトルが二本、空になって転がっている。どうりで二日酔いにもなるはずだ。
 寝ているのをいいことに、改めてシオリを観察してみた。腰まで届くサラサラの髪。やや吊り上がった柳眉に切れ長の目。尖った鼻と薄い唇が、冷たい印象を与える。くっきりと浮かんだ鎖骨の先から、陶器のような光沢を放つ腕が伸びて──。
 何の前触れもなく、シオリが顔を上げた。とっさに目をそらしたが遅かった。
「ケンジ。あなた、いま見惚れてたでしょ」
「い、いや。見てない」
 声が裏返った。見ていましたと答えたようなものだった。シオリの背中が大きく反り返って、尾びれが水面から伸び上がった。水でもかけられるかと思ったが、そうではなかった。単にアクビをしただけのようだった。
「まぁいいけど。おはよう」
「あ、あぁ」
「『あぁ』ってことないでしょ。朝は『おはよう』じゃないの?」
「もう朝じゃないよ」
「じゃあ、こんにちはね」
「それはちょっとヘンだ」
「それじゃ、こんばんは」
「もっとヘンだ」
 漫才をやる気はなかったので、本題を切り出した。
「僕はこれから学校に行かないといけないんだけど。その間、シオリはどうする?」
「ここで寝てる」
「退屈じゃない?」
「退屈って、どういう意味?」
 シオリの目が、興味津々といった具合に丸くなった。退屈という概念自体がないのかもしれない。僕は会話を切り上げて大学へ行くことにした。二日酔いの体に埃臭い私鉄の車両は厳しいが、今日の午後にはどうしても欠席できない講義が入っている。加えて、図書室に用があった。
「図書室?」
「本がたくさん置いてあるところだよ」
「それぐらい知ってるわよ。図書室に何の用があるのか訊いたの」
「キミを栞にもどす方法を調べようと思って」
「なによ。まだそんなこと言ってんの? ゆうべ、あれだけ楽しんだくせに」
「一緒に酒飲んでギター弾いただけだろ」
「ひどい。あたしの胸にさわったことも覚えてないの?」
 シオリが両手で乳房を覆った。どうも彼女は、こういう悪ふざけが好きなようだ。どこでもこうなのだろうか。中には冗談の通じない相手もいると思うのだが。
「絶対にそんなことはしてない」
「した」
「してない」
 たしかに記憶はおぼろだったが、僕がそういう人間でないことは自分自身がよく知っていた。
「ひとつ訊きたいんだけど。ケンジってホモなの?」
「何を言い出すんだ、いきなり」
「だって、あたしと一晩一緒にいて何もなかった男なんていないわよ。それとも何か障害でもあるの?」
「何もないよ。世の中の男がおかしいだけだ」
 僕は言い切った。おそらく、おかしいのは僕のほうだ。シオリは「ふぅん」と言ったきり、僕の顔を見つめたままだった。何か、理解できないものを見るような目だった。
「とにかく僕は学校に行くから。おとなしくしててくれよ」
 言い含めて、バスルームを出た。時間がなかった。顔を洗って歯を磨き、服を替えてカバンにノートや教科書を詰め込むと、急いでアパートを出た。靴を履くとき「行ってらっしゃい」という声を聞いたのには、なぜだか懐かしいような嬉しいような気分になった。
 雨の中を電車に揺られ、どうにか遅刻せずに済んだ。講義はひどく退屈な代物で、居眠りしないよう集中しているだけで終わってしまった。講義の間にペットボトルの烏龍茶を二本飲んだ。二日酔いがだいぶラクになった。
 講義のあとで、図書室に足を運んだ。僕の大学の図書室はちょっとしたもので、学外からも利用者が訪れる。膨大な蔵書の中からアンデルセンの『人魚姫』を探して読んだ。次に安部公房の『人魚伝』を読み、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を読んだ。どれも暗い物語だった。読まないほうが良かったかもしれない。
「よう、山本」
 不意に、声をかけられた。振り向くと、松田が立っていた。高校時代からの友人だ。おそらく、彼もまたシオリにかかれば「冴えない名前」になること間違いない。ただし、彼は僕より遥かに賢い。女性の扱いにも長けている。一方的にやられることはないだろう。彼は僕の手元を覗いた。
「未明か。珍しいもの読んでるな」
「ちょっと事情があってね」
「どんな事情だ? 面白い話だったら聞かせてくれよ」
 松田は隣に腰を降ろした。机に置かれた雑誌は、ナショナルジオグラフィックの最新号だった。彼は文系の人間だが、理系の知識にも精通している。雑学の知識も豊富だ。相談相手としては申し分なかった。
「最近、小説を書いてるんだ」
 そう前置きして、事情を話した。古書店で買った本の栞から人魚が出てきて、自宅のバスタブを占拠している。そういう小説なのだと説明した。酒が好きなところや神業のようなギターなど、すべて話した。小説の中の話だということにして。
「で、人魚を栞にもどす方法を考えてるんだ。名案はないかな」
「変わった話を書いてるな。俺なら人間にしてやるけどなぁ」
 松田は眼鏡のレンズを拭きながら、そう言った。
「それができれば苦労しないよ」
「シナリオを書き換えればいいだろうに」
「いや、それはできないんだ。栞から人魚が出てきただけでも馬鹿げた話なのに、その人魚を人間にするなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ。できれば栞にもどして丸くおさめたいんだよ」
「なるほど。たしかに人魚が人間になるんじゃ、ありきたりだよな。……しかし、栞にもどす方法か。難しいな、そいつは。近い話があったかな」
 松田は真剣な表情で考え込んだ。映画監督をめざしている彼だから、物語のスジを考えるのは好きなのだ。読書量も半端なものではない。
「一つ思い出した。人魚じゃなくて悪いんだが、栞から亡霊が出てくる話なら聞いたことがある。やっぱり古書店から買ってきた本に挟まれてた栞で、出てきた亡霊が部屋に居つくってところまでは同じだ」
「最後はどうなった?」
「適当な本で幽霊を挟んでやると栞にもどった。で、本と一緒に焼かれた」
「あ、それは名案だ」
 思わず手を叩いた。試してみる価値はある。ただし、焼くのはやめておこう。しかし、即座に松田の指摘が入った。
「おいおい、剽窃する気かよ。そりゃマズイだろ」
「っと、そうか。その手は使えないってことだな。小説の中では」
「盗作はやめとけよ。あとはそうだな……、栞紐が竜になる話がある。見かけは巨大な竜だったが、ハサミで切ると紐にもどった。そこで主人公は目を覚まして、夢の中の話だったことに気が付いた。で、手元の本を開くと栞紐が二つに切れていた……って話だ」
「残念ながら夢の中の話じゃないんだよ」
「そうだったな。他にはちょっと思いつかない。本の中から悪魔が出てくる話なら良く聞くけどな」
「霊だの悪魔だの、ロクでもないものばかり出てくるな。人魚ならマシなほうか」
 亡霊が出てきてとりつかれるのに比べたら、美人の人魚がバスタブを占拠するぐらいは上等の部類だろう。問題は、その性格だったが。
「けどな、人の肉を食う人魚もいるぞ」
「あぁ、それは大丈夫だ。うちの人魚はケーキを食うから」
「しかし変わった設定にしたもんだな。全然人魚らしくないぞ、それ」
「まったく同感だよ」
 思わず溜め息をついた。松田は少し怪訝そうな表情を見せたが、何も言わなかった。いかに頭の切れる彼でも、僕の部屋に人魚がいるとは思いもしなかったのだろう。
 それにしても、小説を書いているというのは我ながらうまい言いわけだった。実際、僕は暇つぶしに詩や小説を書いたりするし、松田もそれを知っている。僕がどれだけ荒唐無稽な話をしたとしても、すべて作り話だと思うことだろう。罪悪感はあるが、キチガイだと思われるよりマシだった。
「ま、書き上げたら読ませてくれよ」
 そう言って、松田はナショナルジオグラフィックを読みだした。人魚の話には、これ以上興味がないようだった。僕は松田推薦の北欧民話集を借り出して図書室を後にした。人魚の話が収録されているらしい。
 校舎を出ると、すでに日も暮れて、昨日からの雨はやんでいた。強い風に押し流されていく灰色の雲をながめているうち、どこか漠然とした不安に苛まれた。何かの予感があった。あまり良くないことの起こる予感が。
 ラムと焼酎を一本ずつ買って帰った。ケーキ屋には寄らなかった。代わりに『人魚』を買った古書店に寄ってみると、シャッターが閉じられていた。僕は、斜向かいの仏具店で話を聞いた。そして、その古書店が雨の日にしか開かれないということを知ったのだった。



  ──以上、14005/20000




 今日一日で、あと6000字か……。きつー。推敲する時間もねぇじゃんよ。しかも、あと一章で終わりなんだけど字数が足りないヨ★カ★ン。というか、もうムリだね。ムリ。酒飲んで寝よ。


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